今回の記事では、歴史の話をします。
神奈川の横須賀
京都の舞鶴
広島の呉
これ、何だかわかります? かつて日本軍が一大拠点としていた軍港です。
そして、横須賀・舞鶴・呉の各軍港に向けては、明治時代に鉄道路線が敷設されました。これらの路線は現在も残っていて、それがJR横須賀線・JR舞鶴線・JR呉線です。
軍港へ向けて鉄道が敷かれたのは、もちろん偶然ではありません。鉄道を通しアクセスを向上させることで、兵員や物資の輸送をスムーズに行おうとの意図によるものです。つまり、軍事利用目的で建設された路線だと。
「鉄道の軍事利用」は外国の事例が一つの参考になった
現代日本で暮らしていると、鉄道の軍事利用は馴染みがないでしょう。が、明治から昭和の戦争遂行時代にかけては、特に珍しい概念ではなかったと思われます。
しかし、日本人は最初から「鉄道は戦争に使える」と考えていたわけではないようです。どうやら、鉄道の歴史が始まってしばらく経ってから、「鉄道の軍事利用の有効性」に気付いたと思われます。
では、何がきっかけで明治の日本人が「鉄道の軍事利用の有効性」を認識したかというと、その一つが外国の事例。具体的には、プロイセン王国(ドイツ)を参考にしました。
プロイセンは、1866年と1870年(=日本では幕末~明治初期)に戦争をしていますが、鉄道を使って迅速な兵員輸送を行いました。これが後に日本で参照されて、軍事利用の一つのきっかけになったようです。
鉄道の軍事利用の先駆者 ヘルムート・フォン・モルトケ
プロイセンにおいて鉄道の軍事利用を推進した人物が、ヘルムート・フォン・モルトケ(以下、モルトケと表記)です。プロイセンの軍人だったモルトケは、「鉄道は戦時に有効活用できる」と早くから目を付け、路線の整備を進めました。
……などと書いても、日本史に直接絡んだ人物ではないので、日本人の99%は知らないでしょう(^^;)
日本史との接点を挙げるとすれば──お雇い外国人として来日し、関ヶ原合戦の布陣図を見て「西軍の勝ち」と断じた、という逸話で知られるメッケル少佐。歴史好きな人なら知っていると思いますが、このメッケルの師匠がモルトケです。
メッケルは日本の軍制改革に大きな影響を与えましたから、その師匠であるモルトケも、実は陰から日本史に絡んでいる、と言えなくもありません。
モルトケと同時代に活躍した人物としては、「鉄血宰相」として知られるビスマルクが挙げられます。モルトケは軍の参謀として、宰相ビスマルクとともにプロイセンを発展させ、ドイツ統一(ドイツ帝国樹立)の立役者となりました。
普墺戦争と普仏戦争で効果を発揮した鉄道輸送
そのプロイセン(ドイツ)という国家ですが、他国とは陸続きになっています。そして、天然の要害がない。つまり、敵に攻め込まれたときに守りにくい面があります。
となると、必要な場所に必要な兵員・物資をいかに早く集めるかが勝負のポイントになります。大量輸送を行える鉄道は、動員力の観点から、都合の良い手段というわけ。
もちろん、他国から攻め込まれたときだけでなく、こちらから攻め込む場合にも、鉄道という輸送手段は力を発揮します。
鉄道網の基本的な考え方としては、国境へ向かう「タテの路線」と、タテ同士を繋ぐ「ヨコの路線」を組み合わせます。敵の迎撃、あるいは攻め込む際には、「タテの路線」で国境へ向かう。必要に応じて「ヨコの路線」を使うことで、敵前での左右移動も可能になります。
こうした考えによって、鉄道網の建設・整備を進めたのがモルトケです。当時のプロイセン軍には「鉄道部」もあったそうです。鉄道を使った兵力集結の演習も行われていました。
これらの政策は、1866年の普墺戦争(プロイセン vs オーストリア)と、1870年の普仏戦争(プロイセン vs フランス)で存分に効果を発揮します。鉄道を使い、相手の予測を超える速さで兵力を終結させたことが、主導権の確保ひいては勝利に繋がりました。モルトケの考えが正しかったことが証明されたわけです。
日清・日露戦争の前後に整備された軍港へのアクセス線
これらプロイセンの戦争は、日本の鉄道政策にも影響を与えたはずです。
というのは、1880年代から朝鮮半島を巡って清との関係がキナ臭くなっており、対決を見据えて準備する必要がありました。対外戦争に勝利したプロイセン(ドイツ)の鉄道活用例は、当然ながら参考にしたはずだからです。
さらに、明治初期はフランス流だった日本陸軍が、のちにドイツ流に転換されます。前述のメッケル少佐も、日本陸軍の軍制をドイツ流に改革するために招聘された人物です。
そうしたドイツ流への転換を通じて、モルトケの思想──軍事における鉄道の重要性が、より日本に浸透していった可能性はあります。
軍港へのアクセスを担う横須賀線が開業したのが1889年。これは日清戦争(1894~95)の少し前ですね。
日清戦争で大勝した日本は、清から莫大な賠償金を得ます。賠償金の額は、日本円換算で約3億6,000万円。かかった戦費は約2億円なので、ものすごい“お釣り”が出たわけです。
「次は大国ロシアとの戦い」と予測しており、この賠償金(プラス軍事公債や増税)を充てて、猛烈な軍備増強を行います。並行して、鉄道の建設も進められました。呉線が開業したのが1903年、舞鶴線は1904年に開業します。日露戦争(1904~05)とほぼ同時期ですね。
(ちなみに舞鶴港は、日本海に面していることから、対ロシアを強く意識した軍港であることがわかる)
──こうして「戦争に鉄道は不可欠」との思想で軍港へのアクセス線が出来たわけですが、横須賀線・舞鶴線・呉線は現在でも残っています。早くから鉄道の軍事利用に着目していた、モルトケという人物の思想は、現代日本にも鉄道路線という形で遺されている……と言えるかもしれません。